豊田直巳写真展 「ウラン兵器の人的被害」

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ヨーロッパ議会写真展『ウラン兵器の人的被害』開催にあたって

この度は『ウラン兵器の人的被害(The Human Cost of Uranium Weapon)』の写真をご覧いただき、ありがとうございます。

この一連の取材は、1999年、イラクで、劣化ウラン弾による“ヒバクシャ”と出会ったことから始まりました。ヒロシマ、ナガサキを経験し、「唯一の被爆国」と呼ばれる日本に暮らしていながら、それまで、私はウラン兵器の恐怖を実感せずにいました。しかし、「湾岸戦争」から10年を迎えようとするイラクで出会った人々の姿は、ウラン兵器による戦争には、終わりがないことを教えてくれました。それもそのはずです。ウラン238の放射能の半減期は45億年という、地球の年齢に匹敵する長さなのですから。しかも、ナノ単位の微粒子と化したウランの化学的毒性などの問題が加わっているのです。

ところが、その想像を超えた事態がようやく広く世界に知られ始めた頃、次の戦争が起こされました。現在も続く「イラク戦争」です。そして、この戦争でもまた、アメリカ軍やイギリス軍はウラン弾をイラクの人々の頭上に打ち込みました。

2003年4月8日、バグダッドにいた私は、目の前でアメリカ軍のA-10攻撃機が街中(まちなか)に劣化ウラン弾を無数に打ち込む姿を目撃しました。数日後、その砲撃された地点に行くと、たくさんの劣化ウラン弾が転がり、強烈な放射能を放っていました。私はこの事実を全国ネットのテレビや雑誌で報じました。日本では、私の他にもジャーナリストがイラクでの劣化ウラン問題の実態を報じました。しかし、それでも日本政府は長い間、イラクでの米英軍の劣化ウラン弾に使用すらも認めませんでした。そして今も、日本政府はその危険性を認めていません。

しかし、ウラン兵器の影響は、既に「湾岸戦争」の後から多発したガンや白血病に体を蝕まれ続けるイラクの子どもたちが、身をもって告発していただけでなく、「湾岸戦争」に参加したアメリカ、イギリスなどの兵士も告発していました。

そして今、「イラク戦争」でのさらなる劣化ウラン弾使用によるとしか考えられない病気に苦しむ人々が、イラクはもちろん、アメリカからも(この部分を削除しました)声を上げ始めています。自分の体内からウランが検出されたイラク帰還兵の声と、今も戦火の下で、ガンや白血病に苦しむイラクの子どもたちの声が重なります。

こうした、自分の体で知ったゆえに消すことのできない真実の声に、耳を傾けて欲しいと思います。それは、ウラン兵器の使用を許している私たち世界市民の責務というだけではありません。ウラン兵器の影響は、人間が引いた国境を越えて広がる地球規模の問題でもあるからです。そして、だからこそ私も貴方も、国境を越えて繋がって、問題を解決することも出来ると信じるからです。

私の拙い写真が、その解決の一助になれば、こんな嬉しいことはありません。

私の写真に写ってくれた人々、とりわけ、その苦しむ姿をカメラの前に晒してくれた子どもたちに感謝しながら。

 

豊田直巳

 

ヨーロッパ議会で豊田直巳写真展(5月14-16日)

5月14-16日、ブリュッセルのEU議会内にて豊田直巳写真展『ウラン兵器の人的被害』(The Human Cost of Uranium Weapons)が開かれる運びとなりました。合わせて、5月15日には国際フォーラム『ウラン兵器禁止に向けて』が開かれます。今回の企画は、劣化ウラン兵器問題を憂慮するEU議員グループとICBUW(ウラン兵器禁止を求める国際連合)の協力で実現したものです。

豊田直巳写真展『ウラン兵器の人的被害』


「オープニング式典」:5月14日18:00-

場所:ヨーロッパ議会ビル3階、大回廊展示スペース

スピーカー

・ 豊田直巳(写真家、日本)
・ エルス・デ・グローエン(EU議会議員、オランダ)
・ キャロリン・ルーカス博士(EU議会議員、イギリス)
・ 森滝春子(NO DU ヒロシマ・プロジェクト事務局 長、日本)

2007年5月14日― EU議会写真展での挨拶

EU議会写真展「ウラン兵器の人的被害」開催に寄せて

豊田直巳(フォト・ジャーナリスト)

まず最初に、今回の写真展と、このように皆さん前で話しをする機会を準備してくださった、友人の皆さん、そしてEU議会の関係者の皆さんにお礼を申し上げます。

EU議会のThe GreensとEuropean Free Allianceの皆さん、特に、エルス・デ・グローエンさん、キャロリン・ルーカスさん、アンゲリカ・ベールさん、ICBUW運営委員会の皆さん、とりわけ、リア・ヴェルヤオさん、ダグ・ウィアさん、そして,日本において全面的に支援してくださった嘉指信雄教授。ありがとうございました。

さて、私は1990年の「湾岸戦争」が始まる直前に、一週間でしたがイラクを訪問していました。そのとき、バグダッドで人々とお茶を飲んだり、食事を共にしながら、この平和に暮らす人々に爆弾が落とされるような戦争は起こされることはないだろうと思いました。しかし、それから一ヶ月後、彼らの暮らすイラクに、無数の爆弾が落とされたことを、私は日本のニュース番組で連日見ることになりました。

しかし、その無数の爆弾の中にウラン兵器が含まれていたことを知るのは、もう少し後になってからです。その情報は「湾岸戦争症候群」と言う初めて聞く言葉と一緒に、そしてまた、その言葉自体も珍しい劣化ウラン弾として、日本にも伝えられました。

ちょうど私が、フォトジャーナリストの仕事を本格化し始めた頃です。私も一人の日本人なのでしょう。ウラン兵器という言葉、そして放射能という言葉に、本能的ともいえる危険なものを感じました。ヒロシマ、ナガサキを学校の教科書でも学んだ日本の私たちの世代は、おそらく極めて自然に、それが「非人道的」であることを嗅ぎ取るのでしょう。たとえ日本政府が、アメリカの核政策に追随して、「核の平和利用」という幻想的なプロパガンダを広く流布し続けてきたとしても、です。

さて、私は、「湾岸戦争」に参加した帰還アメリカ兵たちに、不可思議な病気が流行っているのなら、同様にイラクでも大変なことが起こっているはずだと思っていました。すると、イラクを訪れた友人たちから、やはり大変なことが起こっていると知らされました。

それで、1999年、私はイラクを再び、訪問しました。イラクは、国連の経済制裁の下にありました。ユニセフが、医療から見放されたイラクの子ども達が150万人も亡くなり、危機的状況であると警告を発していた頃です。確かにバグダッドのガン、白血病病棟で、私が出会った子どもたちは、老朽化した病室のベッドに、希望を失ったような表情で横たわっていました。付き添う母親たちも、子どもを慰める言葉を失っていました。そんな中でも、医者も看護婦も、まともな医薬品のない中で、懸命の治療を試みていたことも忘れません。 しかし、日本なら8割以上の治療が可能と言われる子どもたちが、ここでは8割以上が死んでいくと医者のいう現実に、私は悔しい思いを募らせ、子どもたちの写真を撮らせてもらいました。その多くは、今はこの世にいません。ところで、私は、この子どもたちの写真を日本で発表しましたが、99年の時点では、ほとんどのメディアは、無関心でした。従って、大半の日本人も。それがヒロシマ、ナガサキの経験を持つ日本の現実でした。

次に私がイラクを訪れたのは、2002年の春です。それは、その前の年の2001年に9,11を経験したアメリカのブッシュ大統領が、2002年1月の年頭教書で、イラクを「悪の枢軸」と呼んだからです。「悪の枢軸」と呼ばれる国に暮らす人々の現実を、再度撮影するために。彼らは私たちと変わらぬ暮らしをしていることを伝えるために。

その年は3回イラクに行きました。そして、10年以上前の「湾岸戦争」でアメリカ軍によって使用されたウラン弾が、現在も強い放射能を放っていることも確認しました。ウラン兵器は半永久的に、環境を汚染し続けるのです。ちなみにウラン238の半減期は45億年です。 そして、このウラン兵器にさらされた人々、とりわけ子どもたちに、ガンや白血病が多発している現実は、99年と同様でした。また、医薬品も極度に不足し、たくさんの子どもたちが死んでいった、いや殺されていったことも紛れもない事実と私は信じています。そのことを示すために、私は、ここに「子どもたちの墓地」の写真も掲げました。

しかし、2003 年、またしてもイラク戦争で、アメリカ軍はウラン兵器を使用しました。まだはっきりと覚えていますが、2003年4月8日の朝、アメリカ軍の攻撃機A-10は、私の目の前で、無数の劣化ウラン弾をバグダッド中心部に撒き散らしました。この年も何度もイラクに行きましたが、行く先々のどこにおいても、ウラン兵器の痕跡を見つけました。つまり、バグダッドで、バスラで、マハムディーヤで、カルバラで、アブグレイブで、サマワで、ナシリアで、破壊された旧イラク軍の戦車や大砲からは、強い放射能が検出されたのです。それらは、長い間、街中にも放置されたままでした。

そして、その影響は、イラクに留まらず、イラクに兵士を送ったアメリカにも及んでいたのです。イラクから帰還した兵士たちの体内からもウランが検出されたのです。私がニューヨークで出会った彼らは、現在でも倦怠感、慢性の頭痛などに苦しんでいます。そして、その一人の娘は、イラクの医師たちたちから見せてもらった異常出産の写真と共通するように、右手の指がありませんでした。ここに写真を掲げたビクトリアちゃんです。

さて、ウラン兵器を使用するアメリカ政府も、そのアメリカ政府を支援する日本政府もウラン兵器の危険性を認めていません。しかし、日本では兵器でなくともウランを撒き散らすことは違法なのです。日本政府は自国内では危険とされるウランを、イラクやバルカン、あるいはアフガニスタンで使用する際には「危険はない」という矛盾を犯しているのです。

私としては、3月に「ウラン兵器禁止」を決議した、ここベルギーのように、一国も早く日本が、普通の国になることを願います。同時に、EU議会が、そしてEU参加する国々が、ウラン兵器の廃絶をすることを願っています。 おそらく、それがここに掲げた写真に写った人々の願いでもあると信じています。犠牲者への支援と、そして、新たな犠牲者を作らないために。

拙いスピーチを聞いてくださり、ありがとう。平和のために。

 

[展示される写真パネルは全部で22枚。そのうち5枚は120x180cmの大型サイズで、他の17枚は60x90cmのサイズのものです。展示会場が、EUの建物の中心に位置する大回廊であるため、広いスペースでもアピールするように、たたみ一畳大の大型パネルが5枚含まれることになりました。]

ヨーロッパ議会写真展:全点のキャプション

01. アメリカ軍とイギリス軍による空爆が続いた毎日、市民の中に多くの犠牲者がでた[2003年3月 バグダット]

02. 2ヶ月前まで家族に囲まれて暮らしていた5歳のオマールは、突然に白血病に襲われた[2002年12月 バグダッド]

03. 劣化ウランの放射能や毒素に汚染されていた「戦車の墓場」を調査する日本人

04. まだ病院に通いだしたばかりの白血病の少女。このまま快方に向かって欲しいのだが[2003年6月 バグダット]

05. 6歳のダアーちゃんは昨年、白血病が発症し、撮影の二日後にベットで亡くなった[2002年4月 バグダット]

06. ナダーさんは3ヶ月前に赤ちゃんを産み、そして2ヶ月後に亡くなった(享年25)

07. イラク戦争が始まってからも「湾岸戦争」の犠牲となった子どもたちが死んでいった[2003年7月 バスラ]

08. 白血病やガンが多発してもアメリカ政府は公式には劣化ウランとの因果関係を認めない[2002年12月 バグダット]

09. 南部のバスラ市には「子どもの墓地」ができるほどに沢山の子どもたちが亡くなった[2002年12月 バスラ]

10. 白血病を患う息子を抱えて、はるばるバグダットの病院までやってきたクルド人の父子

11. 電話局を狙った巨大な爆弾は、隣の民家をも破壊してしまった

12. 市場で60名近い人々が空爆の犠牲になった翌日に出あった子ども

13. 「サダム像引き倒し」が、アメリカ海兵隊が持ち込んだ特殊な装甲車で演出された

14. 体調の悪さにからときどき、むずがる娘をあやすだけで、どうすることもできない母親[2002年12月 バグダット]

15. 劣化ウランで破壊され放射能に汚染されたイラク軍の戦車が住宅街にあった

16. バクダット市内中心部に劣化ウランを使った30ミリ機関銃弾が沢山打ち込まれた[2003年4月 バグダット]

17. ビクトリアちゃん。イラクから帰還したジェラルド・マシュー氏の妻から生まれた娘は、生まれつき右手の指が欠損していた(2005年4月 ニューヨーク USA)

18. ムサンナ州(サマワが州都)の母子病院でイラク戦争開始後に生まれた異常出産の赤ちゃんの写真を見せる医師。「こんな例はこれまでここではなかった。初め て見た」と言う。写真には「人魚のような赤ちゃん(足が一本しかない)」と英語でメモ書きされていた。(2004年3月 サマワ イラク)

19. 国連のNPT再検討会議の際に、NGOの集会で劣化ウラン兵器の廃絶を訴える、イラクからの帰還兵のハーバード・リード氏、ジェラルド・マシュー氏、メリッサ・ステリー氏。全員が劣化ウランに被曝し、病に罹っている。(2005年5月 ニューヨーク USA)

20. 空爆は終わった。しかし白血病病棟の子どもたちの果てしない闘いはこれからも続く

21. 米軍によるイラクでの劣化ウラン弾の使用も、また劣化ウランの危険性も認めなかった日本政府によって2004年2月にイラクに派兵された自衛隊隊員たち。(2004年3月 サマワ イラク)

22-1/2. 「劣化ウランの危険性は認められない」といいながら、イラク派兵の全自衛隊員の胸にガイガーカウンターを装着された日本政府。しかし、このガイガーカウン ターでは、微粒子となって飛び散ってしまった劣化ウランの粉末のガンマ線は測定できない。日本政府に二重に自衛隊員たちを欺いた。(2004年3月 サマワ イラク)