「わたしたちの悲しみは、戦争を求める叫びではない」
ライアン・アマンソン(Ryan Amundson)
平和な明日を求める9・11遺族の会
広島にて/2002年10月7日
http://www.peacefultomorrows.org
9月11日は、明るい、晴れた朝で始まりましたが、それは、その日がもたらすことになる恐怖に全くそぐわないものでした。あの日、ハイジャックされたジェット機が、ペンタゴンで働く兄クレイグのオフィスに激突しました。二人の小さな子どもが残され、家族と友人たちは、日々、彼の不在を寂しく思っています。
導き手としての「悲しみと愛」
ペンタゴンの、激突された部分にクレイグがいたのを知った時、私はショックに襲われました。感情が自分の内側から湧き上がってきました。兄の死を引き起こした人々に対する激しい怒りがありました。また、兄を失ったことに対する深い悲しみがありました。こうした感情が自分の中で、はちきれそうになった時、私の心は、私に慎重になるように呼びかけて来ました。悲しみは、兄への愛ゆえのものだということ、しかし、怒りは、兄を殺した者たちへの憎しみゆえのものだということが分かっていました。憎しみに心を支配させてしまうことにより、私は自分の兄を忘れてしまう危険を冒し、そして、怒りと憎しみに満たされてしまうことにより、つまり、兄を殺した人々と同じようになってしまうことにより、私は、兄の名誉を損なってしまう危険を冒すことになります。私は、悲しみに自分の導き手となってもらう選択をしました。何故ならば、悲しみは愛の表現だからです。愛は、創造的な力ですが、憎しみは破壊的な力です。
9月11日になされた攻撃が憎悪によって駆り立てられたものであったにもかかわらず、その後、愛が広まったことに心が慰められました。私の家族の関係は密になりました。何年も話したことのなかった友人たちとのつながりが戻りました。悲しみにくれること以外はほとんど何もできなかった時期に、隣人、そして見知らぬ人たちまでが家族のあらゆる面倒を見てくれました。
多くのニューヨーカーが、9・11の恐怖の後、自分たちの街に新たな顔を見出したと私に語りました。かつては、ストレンジャー(見知らぬ人間)の海に生きているように感じられたのに、今は、人々がお互いを気遣う本当のコミュニティに生きているように感じられると。見知らぬ者同士が優しく抱きしめ合いました。アメリカ人の間から壁がなくなったのです。
残念ながら、そのように壁が崩れ落ちた時、新たな壁が別の場所に作られてしまいました。9・11の後、憎しみがくすぶり続け、ところによると、荒れ狂いました。中東出身者のように見える者は誰もが、疑いの目を向けられ、時には暴力の的となりました。それまでは自分のことを平和主義者だとみなしていた者たちが、今や、サウジアラビアとパキスタン、そしてその間に存在する全ての国を核攻撃によって全滅させてしまえと叫びました。政治的・文化的指導者の多くが、徹底した報復を要求しました。
9・11の攻撃と兄の死の後、ブッシュ大統領はこう言いました。「一方では、私は悲しみを感じる。他方では、私は怒りを感じる。そして、解決をもたらすのは怒りの方なのだ」
私は、悲しみを通じてこそ、愛を通じてこそ、アメリカは克服することができるだろうと感じました。どのようにして怒りが、そもそも私たちの痛みを引き起こした紛争のみならず、わたしたち自身の痛みに解決をもたらすことができるのか、理解できませんでした。私は、より平和な世界を創り出す道へと私たちを導くことができるのは愛のみだと信じています。
集団的暴力の全ての被害者への新たな共感
兄が非業の死を遂げるまで、私は、戦争や平和について、あるいは、暴力や非暴力について考えたことが、あまりありませんでした。暴力は、問題解決のための容認しうる仕方だといつも見なしていました。学校で読んだ歴史の本から、戦争と、戦争に伴う恐怖は、必要悪なのだと教えられました。原爆を日本に投下することは、合衆国が自分を守るために必要だったと言われました。私は、こうした合理化を信じました。そして、私は、イスラエル政府によって作られた合理化、つまり、イスラエルを守ることができる唯一の方法は、パレスティナ人たちを戦車や銃や爆弾や毒ガスで脅すことなのだ、という合理化を信じていました。暴力。戦争。テロ。死。私はこれら全てが必要なものと信じ、平和への希望は抱いていませんでした。私は、集団的暴力は、嘆かわしい、しかし必要な悪と思いみなしていました。
兄が殺された後、私は、こうした前提を問わざるを得なくなりました。私は、世界各地で戦争とテロの犠牲者となった人々との間に結びつきが新らたに見出されるのを感じました。広島や長崎で殺された人々の兄弟のことを思い、我がことのように痛みを感じました。兄が残した子どもたちを見る時、ヒトラーによって殺された人々が残した子どもたちのことを思いました。私の母と父を見る時、ベトナムでナパーム弾によって殺された人々の両親のことを思いました。
集団的暴力のあらゆる犠牲者に対して、このような同情を新たに感じた時、私は激しい切迫感を感じました。私の家族と私が経験していたような痛みをどこのいかなる人にも経験してほしくないと思ったのです。合衆国に対してさらなるテロ攻撃がなされれば、さらにどれほど多くの人が死ぬだろうと思いました。しかし、同時に、9・11への自分の政府の反応の結果、さらにどれほど多くの人が死ぬだろうと思いました。
暴力による報復を叫ぶ人々の口から吐き出されるレトリックを耳にする時、兄と同じように多くの人が死ぬことになると怖れました。すでに何千という人々の命を奪っている軍事行動を正当化するために9・11の犠牲者の死が使われたことには、心が痛みます──この軍事行動は、テロを生み出す根本原因に取り組まないかぎり無益なものなのです。
私の家族の多くが同じように感じました。私たちの悲しみが、さらなる死と破壊を正当化するために使われていたため、平和と非暴力のために声を上げることが大事だと私たちは感じました。まもなく、自分たちの悲しみは戦争を求める叫びであって欲しくないと思っていた他の人々と出会い、つながりが出来ました。
私たちは、「ピースフル・トゥモローズ」と呼ばれるグループを作ることにより、声を合わせました。「ピースフル・トゥモローズ」の使命は、テロを排除するために有効な非暴力的方法を促進し、集団的暴力を被っている他の人々との間に、国籍を超えた共通性を見出すことにあります。
「非暴力」対「暴力」
私たちのメッセージは、多くの人が抱く強い信念──合衆国をさらなるテロ攻撃から守るためには軍事行動が有効であり、必要だという信念と真っ向からぶつかっています。
多くの人々は、戦争によって平和を購うことができる、すくなくともある種の平和は手に入れることができると信じています。こうした世界の見方は、ある種の不正を受け入れることを意味します――つまり、恒常的な恐怖、損なわれた自由、秘密、虚偽、無垢なる人々の死、そして、気味悪く立ち現れる、核戦争による絶滅の脅威。こうした見方によると、平和は、時には戦争によって戦い取られねばならないものですが、こうした種類の平和は、戦争の一時的な不在にすぎません。
別の観点によると、平和な世界は、正義の原則の上に築かれなければなりません。こうした世界の見方が求めるのは、普遍的人権、知識と真理への十全なアクセス、全ての人々の間の平等、基本的な人間的ニーズの充足、生命が神聖なることへの敬意などです。こうした見方では、平和は、平和の絶えざる実践によってこそ達成されるのです。
兄の非業の死によって、私は、私たち一人一人がどのような種類の世界に向けて努力するのかがいかに重要かを理解しました。私たちは、暴力の原理によって動き続けることにより、人々がオフィスに座ったまま死んでいくような不正の世界を受け入れるのか、それとも、平和を実践することによって、正義の世界を創り出すために奮闘するのか。
私の兄を殺した者たちが、どちらの見方に信念を託していたかは明らかです。彼らは暴力を良しとしたのです。
悲しいことながら、彼らの暴力に対するアメリカの反応もまた、暴力への信仰に基づくものでした。多くの人々は、国家による暴力は、より正当で正義にかなったものだと見なしていますが、その結果は同じです。人々が死に、その家族が苦しむのです。
私にとって、これは、イスラムとキリスト教との間の闘争でもなく、東洋と西洋の間の闘争でもなく、いわゆる文明化した世界と、いわゆる文明化していない世界との間の闘争でもありません。私にとって、これは、非暴力対暴力の問題なのです。
幾人かの人々は私の意見に驚きます──特に、私の兄が9・11で殺されたと聞くと驚きます。私は、彼らが驚くということに驚きます。私の兄は、暴力への信仰ゆえに殺されたのです。ですから当然のことながら、私は暴力を止めたいと思います。私は、9・11に家族の一員を失い、同じように感じている多くの人々に出会いました。そして今、私は、世界の他の場所で、他の暴力的行為によって苦しめられてきていて、同じように感じている人々と出会いつつあります。
ある人たちは、私たちの意見は感情に根付いたものだとして、まともに取り合おうとしません。確かに、私たちの意見は感情に導かれたものです。しかし、戦争を求める人々もまた彼らの信念を感情に基づかせているのです。
「平和を信じる」とは「平和を実践する」ことである
もう一度繰り返しますが、ブッシュ大統領は、「一方では、私は悲しみを感じる。他方では、私は怒りを感じる。そして、解決をもたらすのは怒りの方なのだ」と言いました。
合衆国の多くの人々は、共通の敵との戦いへのコミットメントに喜び勇んでいるように思えるのに対し、他の人々は、暴力の応酬のサイクルが続いていることに悲しんでいます。
9・11に兄を失って以来、私は、暴力こそ、私たちの真の共通の敵だと信じています。
暴力に終止符を打ち、暴力へと駆り立てる憎悪に終止符を打つ希望はあるのでしょうか?私は、ただ単に、私の話を希望に満ちたトーンで終えるために、希望を皆さんのもとに残して終わろうとは思いません。私は、皆さんに、ただ単に平和を望むこと以上のこと、つまり、真に平和を信ずることをお願いしたいのです。平和を信ずることは、必ずしも、世界平和がいつの日か現実になるだろうと信じることを意味しません。平和を信ずるとは平和を実践することを意味します。 |