「イラクへの戦争被害・劣化ウラン弾ヒロシマ調査団」報告会



報告:森瀧春子さん
(劣化ウラン弾禁止(NO DU)ヒロシマ・プロジェクト)世話人

2003年7月18日(金)18:30〜20:30
平和資料館地下 会議室1(平和公園内)資料代 500円

市民の目で見た、混乱のイラクの実状、人々のようすを、ビデオで報告します。

「イラクでは予想以上に戦争状態の続く危険に満ちた荒廃状態の
中で苦しむ民の姿に胸を衝かれました。50度までしか計測できな
い温度計は振り切れました。

 熱暑を気にしながら、参加者の皆さんの懸命のご協力のおかげで、
放射能測定や13の土壌サンプル採集、爆発後のクレーターからの
水4個、水道水、破壊タンク上のチリの濾紙への採集をしました。

 そして何よりも現地医師や住民の協力による30数件の尿の採集の
見通しなど劣化ウラン弾調査のための材料は十分に集められまし
た。」(森瀧さんのメールより)

主催:劣化ウラン弾禁止(NO DU)ヒロシマ・プロジェクト
核兵器廃絶をめざすヒロシマの会     
共催:(財)広島平和文化センター            

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「劣化ウラン弾禁止(NO DU)ヒロシマ・プロジェクト」
〒731−5191 広島市安芸五日市郵便局私書箱第3号

  郵便振替口座名: 「NO DUヒロシマ・プロジェクト」
  郵便振替番号 : 01380−7−81555   



報告が届いています。
広島瀬戸内新聞左党週一さんからです

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「イラクへの戦争被害・劣化ウラン弾ヒロシマ調査団」報告会

NO DU プロジェクト ヒロシマ さとうしゅういち
(自治労広島県職労)

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はじめに

「イラクへの戦争被害・劣化ウラン弾ヒロシマ調査団」報告会
が7月18日(金)、「NO DU プロジェクト ヒロシマ」と「核兵器廃絶をめざす
ヒロシマの会主催」、「(財)平和文化センター」の共催により、広島市中区
の平和資料館地下会議室で行われ、85名が参加しました。

まず、当プロジェクトの舟橋喜恵さんから「森瀧さんたちは、急にイラクへ行く
ことになり、やっと出発にこぎつけた。現地では50度を越える暑さの中、調査
をされ、今は、取材対応や講演でお忙しくされている。また、今日も、現地で
撮影したビデオの編集でお忙しいと聞いている。今回のプロジェクトの大
きな目的は「ヒロシマが何が出来るか」ということだ。22日に出発したが、
その前日の21日に壮行会を行い、ある出席者が、「何か森瀧さんの身に
起きたら凄いニュースになる、と冗談をいったら、心優しい他の方が、「森
瀧さん、何もできんでもいい。無事に帰ってきてください」とフォローしてくだ
さった。ともかく、今回は、命がけの調査報告だ。心して聞いてほしい」と
開会の挨拶。

ヒロシマ・アピール成功を

続いて、当プロジェクト代表の嘉指信雄さんが、現在、編集中の劣化ウラン弾禁
止ヒロシマアピールについて説明しました。

「3・2の人文字が終わり、体制を立て直して(有志が)活動をはじめている。
この最初が、今回のイラクへの調査団だ。わたしたちは、この「ヒロシマ・アピ
ール」を8・6までに完成し、大きな形で議論を引き起こすきっかけになってほ
しいと願っている」と挨拶。

そして、ヒロシマ・アピールの目的について以下のように説明。

「最初、英文でアピールをつくって、(劣化ウラン弾の被害はないと開き直る)ア
メリカ政府の批判を行うつもりだった。しかし、いろいろなことを考えた結果、
日本の人たちの頭上を越えてアメリカへ届けても、たとえば議員のゴミ箱に直行
する危険がある。それよりは、まず、キャンペーンの趣旨を日本で広く共有し、
一緒に力をあわせてやっていきたい」

そして、このアピールのポイントとして「イラクが大量破壊兵器を保有していた
という情報とともに、劣化ウラン弾による被害はないという、アメリカ政府の
うそを明らかにすること」をあげました。

実際、核政策研究所(NPRI)がまとめた報告書では、93年こ
ろから、米陸軍の研究者が、DUに健康被害がおきることを明らかにしていたの
ですが、米政府はそれを知りながら、96年に影響を否定するような報告をだ
していたそうです。

また、DUをねずみに埋め込むと、被害が子供に及んでしまうそうです。4ヶ月
以内に妊娠しても影響はなかったそうですが、6ヶ月以上たつと、影響がでるそ
うです。

アメリカ政府は、低レベルの放射能だから、ということで、影響なしとしていま
すが、低レベルであっても「遅発性」の影響を及ぼすそうです。
また、たとえ少量であっても、DU自体が、重金属としても有害で、放射能の毒
性と重金属としての毒性が重なれば大変な影響があるそうです。

「アメリカ政府がDUに影響がないと言っているのは、無責任だが、ホワイトハ
ウスHPなどには、かかれ、まかり通っている。おかしいことはおかしいといい
続けなければいけない。」と嘉指さんは語気を強めました。

そして当面「アピールを日本の国会議員に各地の人の協力を得ながら、配
って行きたい」と決意を表明しました。

続いて森瀧さんが登壇されましたが、イラク戦争反対でサイレント・ウォーク
久保寛之さんが、ウォーク時と同じ姿で会場に「乱入」するパフォーマンス。

壇に歩み寄ると、声を詰まらせながら「よく帰ってきてくれた。あなたのいない
間に日本は大変なことになりかかっている」といいながら、花束を仲間とともに
森瀧さんに手渡しました。

イラク訪問への想い

続いて、森瀧さんがお話を始めました。

まず、久保さんのことを「昨年、一緒にイラクへ行った方です。」と紹介。
森瀧さん、久保さんは、昨年12月、自治労の福山真劫・副委員長(原水禁事
務局長)や山口茂記・政治局長らとともに、イラクへ行かれています。

森瀧さんは今回のイラク調査について、「準備も十分でもなく、みなさんに
薦められるものでもなかった。嘉指さんも、(国家公務員なので)行けなか
った。」と振り返りました。

そして、「昨年12月は、戦争をとめようという気持ちで、イラク現地へ行った。
しかし、がんばっても、アメリカの無法者によって戦争は始まってしまった。
バスラは前回行ったときも廃墟だったが、今回はもっとひどかった」と悔しが
りました。

そして、今回の調査について「なぜ急いだか?それは、まず、イラク戦争で
破壊された戦車が、このままでは持ち去られてしまう。相当数まだ残って
いたが。跡形もなくなっては、DUが使用されたことを検証することが難しくなる。
また、(アメリカよりの)暫定政権が出来てしまえば、調査ができなくなる
恐れもあると考えた。
また、ヒロシマがしないでどこがする、という思いもあった。DU
による被害も放射能被害だ。」と理由を説明。

「残念ながら、広大の原医研の先生は、渡航できず、「素人で
もサンプルを持って帰れば、十分な結果が得られるだろう。」とうことで、先生に
採取方法などを教えてもらったが、自信がなかった。しかし行ってみないと始まら
ないと思い、行くことになった」と苦労を振り返りました。

そして、「ジャーナリストの豊田直巳さんが、よくわたしたちを導いて
くださった」と感謝を述べました。

苦労した調査

今回の調査では、土壌はバグダッド、バスラ。中部、北西部で
13箇所のものを持ち帰ったそうです。また4箇所の水道水。バグダッドのマン
スール病院での7例の尿を持ち帰っています。

尿については、ある場所では、ドクターが、住民の協力をとり
つける、といってくれました。しかし、やはり、24時間の間に出た尿を、普通
の人がとるというのは難しかったようで、やはり、医者の管理下にある人でない
と無理だった、ということでした。

現地の状況

現地の状況については「一口ではいえない。しかし、より厳しい状況で死と
隣合わさった状況だ。数え切れない人が空爆で亡くなったが、今回は、
都市部でもDUが使用された。イラクの人々への影響は計り知れない」と
現地の人を案じました。

また、放置された戦車の上では、こどもたちが遊んでいるそうです。このままで
は計り知れない被害が出かねません。

一方で状況は絶望的だが、熱意のある若い医者に会えたそうです。彼らは、12
年の経済制裁で世界に追いつけない状況だが、日本の医学に学びたいという思い
は強いそうです。

また、聞くところでは、アメリカが、莫大な金を出して施設をつくるとのことで
すが、どうも、日本でのABCCのように、米軍による放射能被害調査に利用され
かねない、今のイラクでは手を差し伸べられたら誰でもすがりつきたい状況なの
で、下心のない支援が必要。といいます。

日本はとくに研究機関への支援をすべきと森瀧さんはいいます。

調査のほうは、とりあえず、速報的ですが、現地でろ紙に取ったちりのうち、
1例からどうみてもDUとしか思えない、異常にウラン235の割合が低い
ものがみつかったそうです。

さて、現地の病院では、こどもたちは、なすすべなく横たわり、老人は死を
恐れています。


ヒロシマから絵手紙を差し出すと人々は喜びます。ひとり、「私たちがほしいのは
薬だ」とくってかかった、年配の女性もいましたが、森瀧さんは「向き合うしか
ない」とかんがえ、ここへ来た意味を説明しました。すると、最後には手を握っ
てくれたそうです。

生々しいビデオ

続いてビデオ上映に入りました。

アンマンからなんと1000km車で走ったそうです。ワイードさんという、前
回お世話になった人とも会えたそうです。

現地では、保健所の行政官に協力を頼むと、何かにおびえているかのようで協力
してもらえそうもなかったそうです。私自身が、同じ立場なので、胸に来るもの
がありました。

マンスール病院では、絵手紙などを最初医者に託すつもりだったが、一人づつ
渡すことにしたそうです。

同病院の入院患者は白血病かがんがおおかったそうです。肺が食い出て
いたり、白血病と知的障害に同時になっていたりするこどもたち。

いっぽうで若い医者が育っていたそうです。

今でも戦闘が続くファルージャというところでは戦車がたくさん転がり、放射能
測定を行いました。私も20日の日に、準備に参加させていただき、雨宮さんが
用意した放射性のチリをよけるための雨合羽なども詰め込んだのを記憶していま
すが、現地は暑く、マスクだけでもうっとおしかった、と森瀧さんは振り返ります。

戦車があるとこどもたちは遊んでしまうそうで、学校の先生が「近づくな」と
書いても、それでもこどもがあつまってしまうそうです。

また普通の家ももちろん爆撃されていました。

バグダッドでも電話も郵便も通じず、連絡は、実際に行き来することでしか
取れないそうです。本当に行政機構が崩壊しているな、と感じました。

イエローケーキを人々が盗み出して、容器を生活用品として使った場所では、
グリーンピースが浄化のための作戦をしていました。一時は、通常の1万倍もの
放射能があったそうです。、頭から血が出ているこどもがいました。

バグダッド病院(旧サダム病院)では、若い医者と会談。欧州と韓国からは医者
が来て、患者を引き取る体制をとっていると話してくれました。

しかし、日本の対応が遅いと批判されました。

戦争中と戦後の違いについては、戦争中は、危なくて病院にこられず、
売薬でしのいでいたそうです。戦争後は、薬を無償でNGOが配っては
います。しかし医療費がフセイン政権では国費負担だったのが今は
患者負担。

また、多くの患者はほとんど救えない状態だったそうです。脳腫瘍で出血し
それが目付近まで下がって目の裏が赤く染まっている子供もいたそうです。

バスラはもっとひどかったが、時間の関係でカットしました。

最後に

質疑応答では、出席者から「すごく、ありがとう、という気持ち。
自分も平和運動をがんばらなくちゃ」といわれました。

森瀧さんから補足があり、今イラクでは人々が追い詰められ、治安が悪化して
いる。銃の乱射事件なども相次いでいるそうです。仕事も給料もない。
また、アメリカ軍を撮影することは危険だそうで、豊田さんに止められた、
と苦笑しました。
また、ホテルに帰っても冷房がないので、外で活動しているほうが気休めに
まだなるそうです。


つづいて、会計の雨宮さんが、カンパの訴えを行い、「たとえ資金不足になっても
よいという覚悟でやっている」と訴えました。


つづいて岡本三夫・HANWA共同代表が閉会の挨拶を行い、自分も91年に湾岸
戦争後にイラクへ行った。世界のヒバクシャと連帯して行きたい、と述べました。